第5話 ホーロー鍋の過去
仕事を終えて家に戻ると、ちょうど妻が夕飯の支度をしていた。
「おかえりなさい。待っていてね、すぐ用意するから」
ネクタイを緩めながらダイニングチェアに腰を下ろした僕にいつもの笑顔を投げかけ、彼女はいそがしくキッチンの奥へと戻っていく。中をちらりとのぞくとガスコンロの上に乗せられたオレンジ色のホーロー鍋が見えた。やった、今夜はシチューだ、と僕は心の中で喝采を挙げ、火を消して鍋を食卓に運ぼうとする彼女に「重いだろ、僕がやろうか?」と声をかける。「ううん、大丈夫だから。ありがとう」と彼女は答えるが、その足取りは何とも心もとない。あの鍋はとにかく重いのだ。熱周りにムラの出ないホーロー鍋は煮物を作るのにうってつけだが、お嬢様育ちの彼女には少々扱いが難しいと言わざるを得ない。「やっぱり僕が運ぶよ」そう言ってキッチン内に素早く移動し、真新しいミトンを装着して彼女から鍋を受け取る。
食卓に向かっていそいそと鍋を運びながら、僕はふと小さな疑問に突き当たった。
そういえばこの鍋って、何のきっかけで買ったんだっけ?
自炊に全く縁のなかった自分の持ち物ではあり得ないし、料理好きとはいえ力のない彼女がこんな重くて扱いづらい鍋をわざわざ選ぶとも思えない。だとすれば、誰かからの貰い物だろうか?友人からの結婚祝いか何かだったかも知れない…。
「ねえ、この鍋って誰かから貰ったんだったっけ?」
キッチンから出てきた妻にそう問いかけると、彼女はエプロンの紐をほどいていた手を止め、かすかに表情をこわばらせた。何だ?そんなに変な質問だっただろうか?
しばらくの沈黙の後、彼女はやや乾いた声で「それは、聞かない方がお互いのためだと思うわ」と言った。
「何だよ、それ」僕は少しむっとした表情で切り返す。隠し事の存在を前提にして、しかも僕に対して当てつけるような彼女の答え方が気に入らなかった。
「言いたくないならはっきりそう言えば良いさ。でも、僕たち夫婦だろ?それなのに隠し事なんかされて僕がどんな気分になると思う?それってすごく不誠実だと思わない?」
「そう…どうしても、知りたいのね…なら…言うわ」
彼女は前髪をさっとかきあげ、遮蔽物のなくなった両目で僕の顔を睨みつけて言った。
「あなたよ」
「へ?」
「付き合い始めて最初の誕生日、料理好きの私に『あなたが』くれたプレゼント。記念の写真も撮ったわ。今この場で見せても良いけど、見る?」
「いや、あの…え?」
混乱に言葉を紡ぐ余裕もない僕に能面の如く薄っぺらくて冷えきった微笑を向ける彼女。
「いいのよ、いつものことだから…。あなたがこうして私との大事な思い出をいつもいつも忘れてしまうせいで、これまで何回喧嘩になったか、ご存知…?」
「そ…その答えは、聞かない方がお互いのためだと思う…な」