Short Story

第21話 悩める二律背反

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 食後に飲む一杯のキャラメルマキアートが安藤氏の日常において最も楽しみなイベントの一つだった。通常よりもやや多めのミルクをバニラシロップと一緒にミルクスチーマーにかけ、エスプレッソを注いだ後にたっぷりのキャラメルシロップをトッピング。柔らかで後を引かない甘みが全身に染み通り、安藤氏の頬は知らず知らずの内にだらしなくにやける。一日の仕事の疲れを見事なまでに吹き飛ばす温かな液体は正に百薬の長の名がふさわしい、と彼は思っていた。
 そんなある日。いつものように夕食を終えた後いそいそとエスプレッソマシンを準備する安藤氏の傍ら、洗い物をしていた妻がふと手を止め、振り向いて言った。
「そういえばあなた、少し太ったわね」
 発言の意図を飲み込めず、え?と言葉短かに返事する安藤氏をよそに、妻は電源の入っていないエスプレッソマシンをじっと見つめ、やがてつかつかと歩み寄ると、安藤氏が言葉を発する間もなくマシンを奪い取った(ように彼の目には映った)。
「健康に悪いから、しばらく控えなさいな」
 言葉にならない悲鳴をあげる安藤氏を無視して、妻は無下にもそう言い放つ。こういう時の妻の態度はフィヨルドよりも険しくて厳しい、と涙を堪えながら安藤氏は思う。彼女が思い立った時点で、もはや反撃は不可能なのだ。
 こうして、翌日から過酷な節制生活が始まった。おそらく妻は自分の減量を確かめない限り、禁止令をとくことはないだろう。どうにかして痩せねばならない。運動が一番手っ取り早いが、インドア派の安藤氏にとってそれは極めて高いハードルである。それに、運動によって逆に今まで収縮していた筋肉が活性化され、結果的に体重が減らないケースも多いと聞く。それでは意味がないと思う安藤氏。数字ではない、見た目が重要なのだということにまでは頭が回らず、あっさり運動ダイエットを放棄して次の策を練る。要は今より摂取カロリーが減少すれば良いのだから、「摂取量を減らしバランスを取る」「摂取物自体の素材を再考してカロリーを減らす」 という方法が有効だ。 主客の視点を転換して「体質改善を促し脂肪を燃焼しやすい状態を形成する」というのもありだろう。もう少しトリッキーな観点からは「観察者の判断機能に加工を施す(痩せたと誤認させる)」「観察行為そのものを無効にする(キャラメルマキアートを禁止しても痩せはしない、と実証する)」という手法も考えられる。いつの間にか安藤氏の思考は「いかにして痩せるか」から「いかにして妻を納得させキャラメルマキアートを飲む方法を確立するか」という方へとシフトしている(痩せるための根源的手法を拒絶しているのだから当然である)。飲みたい。だが、太る(あるいは太ったと認識させる)わけにはいかない。悩ましき二律背反に、非現実的な解決手法だけが悶々と頭の上を飛び回る。
 そんな馬鹿馬鹿しい思考が夜な夜な繰り返され、徹夜続きですっかり頬のこけてしまった安藤氏。そのげっそりした表情を見た妻の「あら、痩せたわねぇ」の一言で、めでたくキャラメルマキアートは解禁となった。
 聞いた誰もが脱力せざるを得ないこの話。しかし安藤氏にとっては、膝を打つエレガントなオチよりも、一杯のキャラメルマキアートのほうがずっと大切だった、ということだそうである。