第13話 忘れたくなかった
書斎で百科事典を片手に調べ物をしている息子の姿に、ふと昔の自分が重なった。
「どうしたの、お父さん?」
扉の側で棒立ちになっていた私に気付き、息子がそう問いかける。「何でもないよ」と私は乾いた唇をなめながらかすれた声で答え、遅いからもう寝なさいと促した。息子は不思議そうに首を傾げていたが、多分眠気も手伝ったのだろう、別段それ以上の追求をすることもなく、事典を本棚に戻して素直に書斎を退室していった。ほの暖かい黄色電灯の灯る部屋の中、一人残った私は、ソファに深く腰掛け、細めた目を天井の片隅に向ける。心臓の拍動に合わせて、その視界が微かに震えて揺れていた。
ちょうど息子の年頃に私が経験した、悲しく痛々しい初恋の記憶。
長い間思い出すことのなかったその記憶が、今、私の胸の中で突如色彩を帯びて湧き出てきていた。
彼女は、その佇まいからして都会育ちのモダンな雰囲気をそこはかとなく漂わせていて、山野の動物や果実ばかりに興味を向けていた男子達にはちょっとした物珍しさを呼び起こさせる存在だった。耳元で切りそろえたボーイッシュなショートカットがよく似合っていて、肌は透けるように白く、滑らかだった。もの静かで、休み時間にはいつも一人、分厚い文学書や科学書を開いて黙々と眺めている、そんなミステリアスな仕草も、余計に周囲の彼女に対する興味を引き立てる結果となった。学級委員だった私は、他のクラスメイト達と比べて彼女と直接話をする機会が幾分多かった。当時はその行為を、学級委員の義務だ、なんて自分に言い聞かせていたけれど、今思えばそんなものはただの大義名分でしかなかっただろう。しどろもどろに切り出す私の話をじっと聞き、話の終わりには短く的確な返事とともに優しげな微笑を返してくれる。そんな彼女に抱いた淡い恋心は、どんどん塗り込められて、あっという間に、とても強く、大きな想いへと成長していった。
しかし、その想いは叶うことなく、届くこともなく、ある日突然、口にする機会すら永遠に失うことになる。
彼女が、事故で亡くなったためだ。
事故の起こったその時、私は彼女のすぐ近くにいた。にも関わらず、私は何の助けにもなれなかった。私自身その事故に巻き込まれ、傷を負ってろくに動くこともできなかったからだ。はち切れそうになる気持ちとは裏腹に、現実の自分はあまりにも無力で、途切れそうになる意識の中、私はなす術もなく彼女の命が失われる様を見ていることしかできなかった。
数日後、病院のベッドの上で、私は担任の教師から彼女の葬儀が行われたことを聞いた。それが、彼女に関する私の最後の記憶となった。以後、現在に至るまで彼女のことを思い起こしたことは一度もない。
なぜ、今こんなことを思い出したのだろう、と目を閉じてぼんやりと考えていた私は、ふと頬に伝わるひんやりとした感触に気がついた。
泣いていたのだ。
突然、鮮明な記憶がよみがえった。担任の報告を聞いた時、私は微動だにせず、まるで石の彫像のように体も心もただ硬直させていたことを。その時も、その後も、彼女を思って一粒の涙も、流さなかったことを。
受け止められなかったのだ。彼女の死が、当時の自分にとってあまりにも辛く、重すぎたから。だから、目をそらし、背を向け、思い出さないことで頑に向き合うことを避けてきたのだ。
今、長い長い時間を経て、やっと私は、彼女の死と向き合うことが出来た。そしてそのことによって、自分の心の有り様をようやく知ることができた。
辛く悲しいだけの、忘れたい、消してしまいたい記憶だと、感じていた。だから思い出さないでいたのだと、思っていた。
けれど、それは間違っていた。
忘れたくなかったのだ。
彼女のことを。
他の何よりも愛おしいと想った、
その純粋な気持ちを。
その想いを一生、大事に持っていたかったからこそ、彼女の死と向き合い、受け止めることができるようになるまで、その記憶を心の宝石箱にしまい込んでいたのだ。
一生、忘れたくなかったから、
だからこそ、思い出さないでいた。
私がその記憶を思い出に昇華できる日を、
私の心は、ずっと、待ち続けていた。
人の心の、何と計りがたいことか…。
今はありありと脳裏に浮かぶ彼女の笑顔が愛おしくてたまらなくて、私は濡れた両頬にそっと手を添え、人知れず涙にくれた。
週末、花束を片手に、私は当時事故の起きた現場を訪れた。目の前の建物にはもはや昔の面影は少しもなく、クリーム色の真新しい壁が鮮やかに目に飛び込んでくる。
事情を説明して、中に上がらせてもらった。 用務員の人の案内で、昼下がりの陽光の差し込む廊下を静かに歩いていく。
ふと、かすかに鼓膜を震わせるピアノの旋律。
思わず私は立ち止まり、辺りをうかがった。
私と彼女が共に学んだ1年B組の教室。開け放たれた窓から爽やかな秋の風が舞い込んでいる。そして、その窓際に。
彼女が。
あの時とちっとも変わらない、
彼女の姿がそこにあった。
言葉にならず立ち尽くす私を優しく見つめ、
柔らかな微笑を浮かべながら、彼女はささやく。
「マサト君」