第6話 壁画の記した未来
中学校時代には色々な思い出があるが、その中でも一番印象深いのは卒業記念の壁画制作だ。
それは、教科書に掲載されていた小説のワンシーンをイラストに起こして、階段の踊り場に面した壁一面に描くというもので、主にクラスの美術部員が先導役となって行われた。私もその中の一人だった。イラストの基本案はクラス全員の賛同で私のデザインが採用されたのだ。あの頃、ただ好きで絵を描いていた私には美術の本質など全く理解できていなかったけれど、少年らしい柔軟なインスピレーションだけは今より遥かに豊かだったと思う。まろやかな午後の日差しに空も大地も海も薄紅色に染められ、そんな暖かくも物寂しい異国の風景の中、錨を下ろして港にたたずむ一隻の帆船。水彩色鉛筆で一気に描き上げたそのラフイメージは、これまでに自分がつくった数々の制作物の中でも最もセンチメンタルな類のものだ。未成熟で青臭い感性を隠そうともせず赤裸々にぶつけた表現の断片を思い起こすと、私の心には懐かしさと同時にひとひらの微笑ましさも去来するのだった。
そんな思い出の残る母校を久々に訪ねることになった。デザインの第一線で働く私の談話を生徒達に話してほしい、と当時担任だった美術教師からの依頼だった。快く引き受けた私は、十数年ぶりの壁画との再会を楽しみにして、記憶に残る印象よりも随分と小さくなった正門をくぐった。
髪に白髪の混じり始めた担任と職員室でひとしきり思い出話に花を咲かせた後、教室へと案内される途中、例の階段に足をかけた私の胸に小さな驚きが舞い降りた。
壁画の絵柄が変わっていたのだ。
変わったといっても、全く別の絵になっていたわけではない。絵の内容も、構図も、基本的には私達が制作した頃のままだった。だが、その色彩は心なしか華やかさを増しており、どこか寂寥感の漂っていた当時の作品と比べて、絵の中の世界への優しさと慈しみを一層強く感じさせるものに仕上がっていた。最も驚いた変化は、絵の中央に描かれていた船だ。あの当時、一隻で停泊していたはずの帆船の横に、今はやや小さな帆船がもう一隻、寄り添うようにして描かれていたのである。
絵の前で足を止めて立ち止まった私に気付いた担任が、この謎の答えを教えてくれた。私達が卒業して数年が過ぎた頃、深夜の校内に不良グループが忍び込んで暴れるという心ない事件があり、その時に壁画もペンキで汚されてしまったのだそうだ。事件後、汚れた壁面を真っ白に塗り直すつもりでいた学校側に、美術部に在籍する一人の女生徒が強く壁画の復元作業を希望した。その熱意が受け入れられ、女生徒が中心となって新しく描き直された壁画が現在のものだという。「物静かだけれど芯の強い、それでいて優しい子でね」担任は言った。「船を二隻描いた理由を聞いたんだ。そうしたら『私はあの絵がとても好きで、でもその中に仄かに感じる寂しさがずっと気になっていて…だから、自分の手で少しでもその孤独を解放して、あの絵に幸せになってほしいと思ったんです』と答えたんだよ」
幸福な絵もあったものだ、と話を聞いて私は思った。惜しみない愛をあの絵に注いでくれた女生徒に無性に礼を言いたくなって、私は担任に彼女の名を問う。そして彼の口から告げられた名前を耳にして、私はこの日一番の驚きに包まれた。
何というミステリィ…。
それは、結婚する以前の、私の妻の名だった。