第23話 ムーン・リバー三重奏
気がつくと、薄暗いジャズバーのカウンタで、グラスを片手に腰掛けていた。
テーブルにもたれかかるようなだらしない姿勢を正そうとしたけれど、体はまるで自分のものでないように重かった。視界が何重ものフィルタをかぶせられたみたいに滲んでふやけている。どうやってこの場所にたどり着いたのかもはっきりとは思い出せない。思い出そうとする気力すら、今は起きなかった。とにかく、突きつけられた挫折が、目の前に広がる絶望が、痛くて苦しかった。
鬱々とした気分にまるでそぐわない小気味よいサウンドが、軽やかに耳元を通りすぎていく。後方で行われているジャズライブの演奏だった。私は目を閉じ、大きく息を吐く。
昔を、思い出した。
自分にとって、ジャズが聴くものではなく、弾くものであった頃のことを。
大人の入口にようやく差し掛かったばかりの高校生の頃。旺盛な好奇心の赴くまま、こっそり入り込んだ夜のジャズバーで、私は一曲の演奏に触れた。
「ムーン・リバー」という曲名を知ったのは、そのずっと後のことだ。
演奏が特別上手かったわけではない。ボーカルが魅力的だったわけでもない。それでも、何故だか分からず、無性に惹かれた。しびれるような感動を覚えた。
楽器などそれまで一度も触れたこともなかった自分を、向こう見ずに音楽の世界に突っ走らせてしまうほどに、刺激的な体験だった。
大学に入学後、バイトをして楽器を買い、日々演奏に明け暮れた。
軟派で女好きでどうしようもなく馬鹿な、愛すべき仲間達との出会いがあった。
時たま頼まれて出向くバーのステージで繰り広げるセッションが楽しかった。鼻先に座る観客相手に精一杯の演奏を振る舞うのが、楽しかった。
選手宣誓でもするような神妙な心持ちで、真剣に楽器に向き合う日々が、幸せだった。
音楽を一生の道にしようと心に決めて、打ち込んで、打ち込んで、
だけどある時に、私は音楽を棄てた。
あるいは音楽が私を棄てたのかも知れない。
当時の記憶は、もうぼんやりとして定かではない。ただ、その時の私は、やはり自身の行く先に大きな挫折と絶望を感じていたのだろうと思う。ちょうど、今日のように。
思えばあれ以来、ジャズバーに足を運ぶようなことは一度もなかった。ずっと音楽の世界に触れることを避けて生きてきた。
不思議だった。どうして今日、自分はこの場所にいるのだろう。
背中の向こうで演奏が終わり、小さな拍手がまばらに響いて陰気な空気に溶けた。
客の喧騒が少しずつ膨らんで拡散する中、カウンタに向かって歩いてくる足音が聞こえる。足音は私のすぐ横で止まり、間を置かずどかりと椅子に腰掛ける音が響いた。テーブルに乗せた肘の骨張った様子がぼやけた視界に映る。男のようだ。彼は陽気な身振りを交え、マスターと何か話している。会話の内容からして、先ほどまでステージで演奏をしていた演奏者のようだった。
「元気、なさそうだね」
突然、声がこちらに向けられたのを感じた。私はほぼ突っ伏していた頭を起こし、多少もたつきながら声の聞こえた方向へと視線を向けた。
横に座る男と、目が合った。
浅黒い肌。涼しげな目。こけた頬と鋭く尖った顎。くすんだ赤の野球帽を深々とかぶり、伸び放題の長髪をゴムで束ねた容姿。
私は思わず、息を止めた。
どういう、ことだ?
目の前の男は、
椅子に座り肘をついて静かに私を見つめるその青年は…。
私の心の動揺をまるで意にしないかのように、青年ははにかんだ笑顔を浮かべ、
「次、とっておきの良い曲、弾くからさ。聴いていってよ」と語りかける。
そして手に持ったグラスをマスターに手渡し、素早く椅子から立ち上がった。
動きを追い切れずのろのろと視線をさまよわせる私に、一言、
「明日はきっと、今日よりいい日だよ。だからお互い、頑張ろうね」
そう、言い置いて。
やがて、静かに演奏が流れ始める。
ムーン・リバーだった。
演奏の癖も、アレンジのこだわりも、些細なミスやリカバリも、
誰よりも良く聴き良く知る、「私の演奏」だった。
演奏の終了を待たずに、バーボンの代金を払って席を立った。
振り返らず、ステージに目を向けることもせず、無言のまま、店を出た。
今日、自分に起きた不思議な出来事に対する、それが礼儀であるように感じたからだ。
電球の切れかけた狭い上り階段を、一歩一歩上る。
目元にほんの少し、じんわりと広がる熱を感じる。
過去の自分に励まされるとは、と、
そう思うと、自然と口元がほころんだ。
彼の励ましの言葉には、一つの具体的な展望もない。
ただの愚直で楽観的な、希望的観測でしかない。
それでも、その言葉の裏に、
一体どれほど青臭く、まっすぐな自信が満ち満ちていることだろう、と感じた。
その自信がどれほど人の心を大きく震わせるか、ということに、思いを馳せた。
大切なことを、学んだ気がした。
きっと今日より良い明日を、温かく迎えよう。そう、思えるようになっていた。
階段の狭い踊り場で、細身の少年とすれ違う。私は体を壁に寄せて道を空けてやった。少年は目深にかぶった帽子のひさしに手を当て、ぎこちなく会釈する。夜の街に不慣れなその仕草が何とも初々しく、そしてどことなく微笑ましかった。
あの少年にも、今日の自分のように、幸せな契機が訪れますように。
駆け降りる足音の残響を背中に感じながら、穏やかな心持ちでそう願う。
そして私は再び階段を上り始めた。