Short Story

第12話 音楽室の幽霊

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 どこの学校にも、一つや二つの怪談話というのはあるものだ。
 夏休みの少し前に転校してきた新しい中学校では、夜な夜な校舎に現れては人知れずピアノを弾く、音楽室の幽霊というのが話題になっていた。
 中学一年生というのは、大人と子供の精神の渾然とした、まだまだやんちゃな好奇心が旺盛な年頃だ。皆が憶測話に花を咲かせる中、怖いもの知らずの何人かは、さっそく夜の肝試し大会なんかを提案して盛り上がっていた。まだ転校して間もなく、皆の顔や名前もろくに覚えてない僕にはきっと声はかからないだろうと、そんなやりとりを少し遠巻きに見ていたのだけど、隣の席の男の子の積極的な呼びかけで、結局は僕も参加することになった。誘ってくれたその子は、日色マサト君という。面倒見がよくクラスのリーダー格で、内気な性格の僕を何かと気づかい、世話を焼いてくれた。僕の方でも、『ひいろ』なんて珍しい名字のおかげですぐに彼のことを覚えた。この学校で最初の友達、といっても良かったと思う。

「やっぱり、暗くなると、学校って雰囲気変わるよな」
 誰かがそうつぶやき、ごくりと唾を飲む。その音は、人気のない夜の校舎に遠く深く響いていく。
「守衛さんに見つからないよう注意しないとね」日色君が冷静に注意を促す。彼は機転がきくうえに頭も良いのだ。
 上履きでは廊下を歩くのにもいちいち大きな音を立ててしまうということで、全員素足で行動することに決めた。口を固く結んだまま顔を見合わせてうなずくと、僕らは三階の音楽室を目指して静かに行軍を始める。ひんやりとした床の質感が靴下越しに伝わってきた。手すりをつたいながらそろりと階段をのぼり、目的地に近づくにつれ、心の中の緊張がじわじわと音もなく高まっていく。
 ふと、かすかに鼓膜を震わせるピアノの旋律。
 皆、硬直して一斉に足を止めた。目をぎょろつかせて辺りをうかがい、息を止めて耳を澄ませる。聞こえるのは風に微かに揺れる窓ガラスの音だけだった。錯覚、だったのだろうか?
 数秒の重苦しい沈黙の後、覚悟を決めた日色君が一気に先頭へ進み出る。やがて音楽室の前で立ち止まり、後方の僕らにちらりと目で合図を送った後、彼は取っ手に指をかけ、軋む引き戸を慎重に開けた。

 目の前に鎮座したそのあまりに可愛らしい存在に、僕は思わず頬を緩めて微笑んでしまった。
 むくむくとした栗色の子犬が、まるで置物みたいにちょこんとピアノの鍵盤の上に乗っていたのだ。一体どうやってここまで入り込んだのだろう、と不思議に思ったけど、とにかく音楽室の幽霊騒動にこの子犬が一役買ったのは間違いなさそうだった。
 他の皆も安心したのか一様に表情を崩して、盛んにシッポを振る愛くるしい子犬に柔らかい視線を投げかけている。
 その後、すっかり緊張の緩んでしまった僕らは、遊び盛りの子犬とじゃれあい、転げ回りながら、ロウソクの明かり一つが灯るだけの薄暗い音楽室で、まるでキャンプみたいな楽しいひとときを過ごした。僕も、日色君も、皆、笑っていた。

「あ、そろそろ帰らなきゃ」
 誰かが手元の腕時計を見て言った。いつの間にか窓の外の夜はますますその色濃さを増している。
「そうだね。あまり遅いと親が心配するし」横に座っていた子が、埃のついた両手を軽くはたきながら相づちを打つ。この楽しい夜がいつまでも続けば良いのに、と僕は宴の終わりを寂しく思った。
「でも、やっぱり幽霊なんていなかったね」日色君は無邪気な笑顔で皆を見回し、そう口にする。「もしかして動物なんかが入り込んでるのかも、って考えてたけど、それもなかったし」
 え?
 彼の言葉の意味が理解できなかった。あの子犬がいたじゃないの、そう言いかけて後ろを振り向き、僕は言葉を失う。先ほどまでさかんに皆の間を駆け回っていた子犬の姿が、今は部屋のどこにもなかった。
 目の前の僕の戸惑う姿がまるで目に入らないかのように、日色君は一言「帰ろうか、皆」と声をかけ、その号令で皆は一斉に腰を上げて入口へと向かう。事態を把握できず呆然と立ちすくんでいたその時、ふと視界に飛び込んできた二つの驚きに、僕の胸は大きく脈打った。
 一つは、日色君の真っ白なシャツの胸元にぶら下がる、『日色ツトム』と書かれた名札。
 もう一つは、黒板の横に貼られた大判のカレンダ。 
 僕は、ようやく理解した。
 僕がこの学校に転校してきた1980年の夏休みから、既に25年の月日が流れていたことに。あの日、今日と同じように肝試しに集まって遊んだ25年前の夜、ロウソクの火の不始末から発生した火事で、逃げ遅れた僕は命を落としたのだということに。

 僕こそが、音楽室の幽霊だったのだ。