Short Story

第7話 透明な滲みの先に

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 夏休みに入り人の姿もまばらになったキャンパス。陽光に触発された歩道のタイルは自身を白色に発光させ、突き抜けた空の青や木々の緑と相まってコントラストの高い幻想的な描写をつくり出している。
 理央は二階の研究室からそんな窓の外の景色に目を向けている。冷房のきいた研究室には彼女の他に後輩の院生が数人いるだけだ。作業を休憩して談笑している後輩達をよそに、理央は無言で机の上に両ひざを乗せたまま動かない。その意識は現実から遠く離れた思惟の世界にあった。
 構築。展開。変換。試行。また、構築。
 次々と紡がれる論理と思考は自己の境界の存在を曖昧にし、身体から剥離した精神が浮遊する意識に更なる加速を促していく。複雑に積層化された方程式の大群が目まぐるしくその構造を変え、無数のモデルケースが現れては消えていく。微かに熱を帯びた頬を汗が一粒、音もなく伝って弾け、殴り書きのフローチャートが記されたルーズリーフにそっと沁み込んでいく。
「先輩、お昼行きますけど、一緒にどうですか?」
 唐突に投げ掛けられた声に、思考の滑空は一瞬にして断ち切られた。呼びかけた彼は、直後には自分が彼女の作業を邪魔したことに気付き、慌てて頭を下げて謝罪した。理央は微笑んで片手をかざし問題ないと答え、ご飯はいいわ、と穏やかに一言添える。この程度の中断は慣れっこだ。笑って受け流せるのも、自分が大人になった証拠か…。
 肩の力を抜き、パソコンの横の煙草を手に取って火をつけた。目の前のモニタには、相対性理論の方程式が回転しながら縦横無尽に動き回っている。スクリーンセーバだ。その映像をぼんやりと眺めつつ、彼女は過去の記憶に思いを馳せた。
 真に秀逸なプログラムには、歴史的な方程式と同様、研ぎ澄まされた美しさがある。
 大学での何度目かのプログラミングの講義。そこで課題として提示された問題の性質の複雑さに比して、教授が示した解答のプログラムは驚くほどシンプルでスタイリッシュだった。そのたたずまいに理央は最初とても驚き、直後には、これで本当に解として成立するのかと思わず疑った。そして詳細な検討を経て、そのシンプルの中に隠された緻密きわまりない計算、大胆で独創的な構築センス、極限まで削ぎ落とされたエッジの鋭さをどうにか認識することができた時、彼女はそのあまりの美しさに鳥肌が立ったのだった。これまでの人生で一度も得たことのない強烈な体験であり、自分のその後の人生を決定づける要因として十分すぎるものだった。
 煙をくゆらせながら、彼女はルーズリーフにぽつりと浮かんだ滲みに目を落とす。
 多分、研究の世界に携わることのない人々にとって、自分が日々追及しているものは、この透明な滲みのようなものにしか感じられないだろう。見ることも、質量を感じることもかなわず、正体を把握できない不可解なもの。だが、自分にとっては。
 ぼんやりと、滲みのその先に浮かび上がる、美しいカタチの片鱗。
 さあ、
 休憩は終わり。
 また飛び立とう。 世界で、最も知的で戦闘的な美の世界へ。
 大きく息を吸い込み、理央は短くなった煙草を勢いよく灰皿に押し付ける。
 細い白煙を立ち上らせた純白の直方体が、愛おしげに彼女の旅立ちを見送っていた。