Short Story

第10話 盗まれたのは〜怪盗704号の午睡(前編)

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「それにしても今時予告状とは、何とも古風ですな」
 まるで他人事のように軽薄なその台詞に、ベルガー刑事は、あんた当事者だろうが、と思わず心の中で悪態を吐いた。無意識に滑り出た舌打ちに気づいた部下達がちらりとこちらを振り向く。きっと彼らの目には苦虫をかみつぶしたような不細工な表情が映ったに違いない。
 強欲な美術品収集家として名高い富豪、ツェッペリンの屋敷にベルガーは来ている。彼が通された豪奢で悪趣味な佇まいの応接室には、数ヶ月前に史上最高値の競売落札で一躍話題となった幻の名画『夜の微笑』が飾られていた。そして先日舞い込んだ犯行予告には、正にその絵の名が記されていたのだ。
「それが奴の、怪盗704号の手口です。一見不合理で真意が読めない行動が多いですが、その犯行は実に計画的で…」
「ここ十数回、奴と警察との対決は、ことごとく警察の完敗でしたな」
 そう切り返したツェッペリンの顔には、ふがいない警察組織に対する侮蔑と不信の念の込もった冷笑が浮かんでいる。ベルガーは返事をせず、黙って唇を噛んだ。彼の指摘は言い逃れようのない事実だったが、自分の仕事に誇りを持っているベルガーにとって、露骨に挑戦的で挑発的なツェッペリンの言葉に素直に服従するのはこの上ない屈辱だった。
  沈黙を保つベルガーを一瞥してツェッペリンは言葉を続ける。
「いや、警察の普段の仕事ぶりに対しては、私は一市民として十分に評価しているし、ゆえに信頼もしていますよ。しかし、万一ということもある。そういった事態に備えて、私の方でも、一つ安全策を提案させていただきたいと思いましてね」
「安全策?」
 ツェッペリンがうなずき、指を鳴らすと、後方の執事が音もなく扉の奥に消え、ほどなく薄布に覆われたワゴンを押す警備員と共に戻ってきた。部屋の中央にワゴンを止め、手際よく布を取り除く。その中身を見てベルガーは目を丸くした。
「これは…『夜の微笑』?」
「良くできていますが、贋作です」そう言うとツェッペリンは壁の絵を慎重な手つきで取り外し、二枚をワゴンの上に並べた。「今回の一件をごく親しい美術商に相談したところ、丁度良い物があるといってこれを譲ってくれました。…今後あなた方警察には、犯人が現れるまで、この贋作の警備をお願いしたい。そして本物は、私以外誰も知らない、さらに警備の厳重な別の保管場所へ移そうと思います」
「何ですって?」聞き捨てならない発言にベルガーは声を荒げた。「納得できませんね。何の価値もない偽物を本物と称して守る、そのポーズのためにわざわざ警備の人員を割けとおっしゃるのですか? 警察はあなたの私設警備員ではないのですよ!」
「警備が手薄になっているようでは、何らかの細工が施されていることを犯人に感づかれる恐れがあります。それでは意味がない。あなた方は犯人を逮捕したいし、私は万が一でもこの絵を失うようなリスクは冒したくない。互いの優先事項をより効率的に組み合わせただけです。別に何の問題もないのではありませんか」
 凶悪な目つきで睨みつけるベルガーを無視して、ツェッペリンはにべもなくそう言い放つ。無言で壁際に控えていた護衛達がその屈強な体を心持ち前方へと押しやり、部屋の中央に立つベルガー達に無言のプレッシャを与えていた。しばらく沈黙の対峙が続いた後、好きになさい、と言葉短く吐き捨てたベルガーに、ツェッペリンは歪んだ笑いを投げつけ、警備員に絵の交換を指示した。ベルガーの目の前で、胸ポケットから白い手袋を取り出して身につける警備員の蒼氷色の瞳が、かすかに光を帯びて揺らめくのが見えた。
 その瞬間。
 甲高い破裂音と同時に、
 世界が暗転した。
 停電だ、と気づくまでに数秒を要した。「非常電源は!?」ベルガーの叫びへの返答はなく、周囲は突如訪れた闇に混乱した複数のわめき声と、騒がしく響き渡る幾つもの靴音。「落ち着いて!まず明かりを回復するんです!誰か懐中電灯を!」ベルガーが言い終える直前、再び全ての照明が灯った。時間にして十数秒だっただろうか。 眩しさにかすんだ視界の片隅に放心状態で座り込んだツェッペリンの姿が映る。そして。
 背筋に寒気が走った。
 中央のワゴン。その上に、贋作を含め二枚あったはずの絵が、一枚、消えている。
「奴だ!」
 目の前で手袋をはめていた、あの警備員の姿がない。力任せに拳を床に叩き付け、ベルガーは勢いよく部屋を飛び出した。薄暗い廊下をあてもなく必死に駆け回る。やがて、突き当たりの窓が開け放たれ、カーテンが悠然と夜風に揺れているのを目にして、彼は息を切らせながら大きく肩を落とした。幾重にも仕掛けられた監視カメラやトラップを全て回避し、外部へつながる最短ルートを選んで逃走している。一分の隙もない見事な犯行だった。
 相も変わらず、何と周到な手口…!
 悔しさに全身をぶるぶると震わせるベルガーの遥か後方で、ツェッペリンの悲痛な叫びが遠く響いていた。

 翌日、徹夜の捜査にも関わらず一向に手がかりを掴めないまま、疲労だけを溜め込んで署に戻ったベルガーの元に電話が入った。ツェッペリンからだった。怒声を覚悟して電話に出たベルガーだが、受話器から聞こえる彼の声色は不気味なほどに明るい。そのことを最初は不審に思ったベルガーだったが、彼が告げた電話の驚くべき内容に思わず耳を疑った。
 犯行後、現場に残されたもう一枚の絵。それを念のために鑑定家に調べさせたところ、その絵こそが本物の『夜の微笑』であるとの結果が出たのだ。複数の高名な鑑定家による鑑定結果で、誤認はまずありえないという。
「きわめて幸運なことですが、恐らくあの暗闇の中で、犯人が盗む絵を間違えた、ということでしょう」ツェッペリンは興奮気味にまくしたてる。そんな馬鹿な、とベルガーは言いかけたが、鑑定の結果が正確である以上、ツェッペリンの元に真作が残された事実は間違いなく、他に現状を適切に説明する仮説は考えつかなかった。「…そうですか、何にせよ絵が無事で何よりでした。それで、今後はどう対処しましょう? 一応贋作の被害が出てはいますが、立件して捜査を継続しますか?」ベルガーの問いかけにツェッペリンは一言、その必要はないと答えた。微々たる被害のために事件を公にしても特に利はなく、むしろ盗難被害に遭いかけたというゴシップが自分の名声を傷つけるだけだという判断だろう。予想通りの返答だった。
 そうして、事務的な手続きの会話が短く交わされた後、騒々しい電話はぷつりと切れ、事件は思わぬ形で終幕を迎えた。

 ベルガーは腑に落ちなかった。いかに視界に著しい不自由があるとはいえ、あれほど緻密に練り込まれた犯行計画の、それも最も重要な核心部分で、そんな初歩的なミスを犯人がおかすだろうか?しかし現場が示す状況からは、どう考えてもツェッペリンの述べた結論に帰結せざるを得ない。
 推理は刑事の仕事を遂行する上で目的ではない。最優先すべきはあくまで犯人の逮捕であり、推理はその目的に到達するための手段にすぎない…。そう分かってはいても、目の前に提示されたあまりに不可解な謎にベルガーの思考はとらわれ、出口の見えない螺旋の迷宮へと深く沈み込んでいった。
(後編に続く)