Short Story

第24話 ウスバカゲロウの旅

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 春の終わりに転校してきたウスバ・カズヤ君は、都会っ子らしいおとなしい性格も手伝って、日々クラスの男子達にからかわれていた。
「よう、ウスバカ」
 授業開始前、給食後の昼休み、掃除時間…色んな時間にそう呼びかけられては、数人に取り囲まれて頭をこづかれたり服を引張られたりしていた。女子はそんな男子達の様子を眉をひそめて見ていたけれど、別段それを止めようという気持ちもないようだった。
 ウスバ君は大抵は困ったような笑顔を浮かべてされるがままだったけど、ときどきその大きな瞳に暗い翳が灯るのに、私は気付いていた。彼の穏やかで優しい心がひどく傷付いてしまいそうで、それが心配だった。

 アジサイの青も色鮮やかな梅雨のある日。
 日直だったウスバ君は、人気の少なくなった教室で一人、職員室に持っていく全員分の学習帳を整理していた。もう一人の日直だった男子は、ウスバ君に仕事を押し付けてさっさと帰ってしまっていた。
 積み上げた学習帳が滑って机の上から落ちそうになったので、私は慌てて駆け寄り、その束を手で支えてやった。ウスバ君は一瞬びっくりした表情で私を見つめ、少し遅れてばつが悪そうな笑顔を浮かべると、小さな声で「ありがとう」と言った。私はにっこりと微笑みながら、今しかない、と思って話しかけた。
「ねえ、ウスバカゲロウって、知ってる?」
 その問いかけに、ウスバ君は不思議そうな表情を浮かべ、首を傾げてみせた。落ち着きをたたえた黒い瞳に見つめられて、私は自分の心拍数が少しあがったように感じた。
「えっとね、アリジゴクなら分かるよね。そのアリジゴクが成長すると、ウスバカゲロウになるんだって。トンボみたいな動物なんだよ」
「アリジゴクって、土の中にいるアリジゴク?」
「うん。アリジゴクの頃はちょっと恐い格好をしてるけど、ウスバカゲロウはとても綺麗なんだって。ゆらゆら、って、羽が舞うみたいに飛ぶんだって」
 へえ、と、答える彼の目が、楽しそうに輝いた。

 私が彼に話した内容は、母から聞いたものだった。
 ある日の夕食時にウスバ君のことを話した際、母はちょっと考えた後で、私にウスバカゲロウの話を聞かせてくれた。そして、彼にこの話をしてごらんなさい、と言ったのだ。もっともその時、私は母の意図を正確には把握できていなかったと思うけれど。
 ウスバ君のウスバカゲロウへの関心は高まって、私は折りにつけて色んなことを尋ねられた。にわか仕込みの私の知識ではすぐに彼の数々の疑問に応えきれなくなり、私たちは二人で図書館に出かけて調べるようになった。彼より背が高かった私は、高い書棚に置かれた高学年向けの本を彼のために取ってあげたりした。分厚い生物図鑑を一緒にのぞき込んでおしゃべりする日々が続いた。

 そんな私たち二人の活動の成果は、思いがけない形で現れた。
 彼はウスバカゲロウの生態について調べた内容をまとめ、その年の夏休みの自由研究として提出したのだ。図鑑や書籍から得た知識を記したものは丁寧に書かれていて分かりやすかったし、実際にウスバカゲロウの生息する林に出向いてその様子を観察した頁もあった。私は彼がそんな遠出をしていたことを知らなくて、なぜ誘ってくれなかったのかと聞いたら、彼ははにかみながら、夕暮れ時で薄暗かったから私を恐がらせたくなかったのだと答えた。まったく彼らしい優しい答えだ、と思った。
 ウスバ君の自由研究は県のコンクールで入賞し、担任の先生は彼のことを大層褒めた。クラスでのウスバ君に対する雰囲気も少し変わったけれど、彼へのからかいが完全に収まるまでには至らなかった。それでも、ウスバ君の目には、もう以前のような暗い翳が浮かぶことはなかった。それは他でもないウスバ君自身に、何らかの自信が芽生えたからだろうと思う。似た名前を持つ動物に対する共感と愛着からか、第三者から受けた好ましい評価からか…いずれにしても、世界は、辛さや苦しみと同じだけ、喜びや楽しみに満ちている。そしてそれらの幸せを見つけることが出来た時、人はそれを柱にして、とても強くなれるものなのだ。
 ウスバ君は、見つけた。ウスバカゲロウとの旅の中で。
 以前よりずっと活き活きとした彼の笑顔が、私にはとても嬉しかった。

 鍋のぐつぐつと煮立つ音が、私の意識を夕飯の支度に引き戻した。懐かしい回想を振り払い、椅子から立ち上がって泡を吹きかけた鍋の火を止める。
「お母さん」
 いつの間にか後ろに娘の加奈子が立っていた。ランドセルを背負ったまま半べそをかいている。
「どうしたの?」
「あのね、りえちゃんがね」娘は鼻をすすりながら話し出す。
「私のこと、からかうの。私の名前、変わってるって。変な名前だって」
 私はしゃがんで、ぐずり続ける娘の顔をのぞき込む。
 そして彼女の髪を撫でながら、にっこりと微笑んでみせた。
「かなちゃん、ウスバカゲロウって、知ってる?」